昭和45年10月30日 朝の御理解
御理解 第35節
「信心は日々の改まりが第一じゃ。毎日元日の心で暮らし日が暮れたら、大晦日と思い、夜が明けたら元日と思うて日々嬉しゅう暮らせば家内に不和はない。」
日々嬉しゅう暮らせば家内に不和はないと。信心生活とはそうゆう生活だと思うですねぇ。日々嬉しゅう暮らせれるとゆう事。日々嬉しゅう暮らせれる生活。そうゆう生活を目指してお互い信心させて頂きたい。ひとことふた事事が成就したからと言うてそれで日々嬉しゅう暮らせれるとゆう事はない。いつでもどんな場合でも、日々が嬉しゅう暮らせれる生活。なるほど嬉しゅう暮らせば家内に不和のあろう道理もない。
同時にここでは元日とか大晦日とゆう言葉を使うておられますけれども、元日と思わんでも大晦日と思わんでも、自ずと日々が正月のやうな又は、日々が大晦日のやうな生活が自然身についてくる。そうゆう生活こそが日々が嬉しゅう暮らせれる生活だと思わせてもらう。誰でもイライラしたり腹立たしい思いで過ごしたりとゆう事は、好んでおる訳ではない。出来れば、そうありたい。嬉しゅう日々を暮らさせて頂きたい。
そうゆう願いをお互いが持ちながら嬉しゅう暮らせないところにです。ひとつその元をね。尋ねてみなければいけないと思うです。これはまあ、私の日々の生活を思うてみる訳ですけれども、別に夜が明けたら、今日は元日のごたると思う気持ちでもない。日が暮れたら大晦日と思うて、とゆうやうな気持ちになる訳でもない。けれども確かに日々が嬉しゅう暮らせておるとゆう。
これは厳密に言うたら、腹を立てたりイライラする事はあるに致しましてもひっくるめて一日を思う時に、やはりどうゆう場合に直面致しましても、本当に信心ちゃ有り難いもんだなあ。と言わば、心がしみじみ嬉しゅうなる。とりわけ、どうゆう時に嬉しゅうなるかと言うとね。ここには信心は日々の改まりが第一じゃと、言うておられます。その改まるとゆう事に一日中、こんな事じゃいけないこんな事じゃいけないとゆうやうな事をですね、思い続けて暮らせる時ですね。
嬉しゅうなる そうゆう例えば思いで、それから次にもう本当に心ゆくまで御神前に座って御祈念させて頂いた。その後もう心が本当に嬉しゅうなる。何とゆう有り難い神さまを頂いておるものであろうかと、もうしみじみ嬉しゅうなる。そこにはね。不安が薄らぐし、又は消えるし自分の周囲が皆有り難い一色に見えてくる。只、今日はひとつ本気で元日と思うて、目出たい一日であるやうに心がけるぞと。
大晦日と思うて、あれも片付けこれも片付けさせてもらうぞとゆうそうゆう思い方ね。そうゆう思い方はいいと致しましても、それは心から湧いてくる。嬉しゅうなるとゆう事はない言うならば、こじつけたやうな事。元日でもないのに元日と思うてと。ここのところは私は、思い替えとか、心のとり方とか、いわゆるおかげのあるも無きも我心とおっしゃる。そうゆう意味の事を教えられてあるんだと思う。
その証拠に別に元日と思わんでも、大晦日と思わんでも日々嬉しゅういけれれる。これなら心の底から、ははあ、こうゆう思い方こそが元日のやうな心だなと。そうゆう思い方こそが大晦日と思わせて頂くやうな心だなと。まあ些細な事でもね。言うなら整理整頓といったやうな事でも、さあ明日は元日だと思うたら、整理整頓でもあれもこれもしなければおれません。実意を欠いだ事はでけません。
けれども明日は元日と思わんでも、日々がです。それが出来るとゆうのは、嬉しい心がそれをそうさせるのです。又この嬉しい心を持続する為には、又、実意丁寧にならなければ出来ないのである。 有り難いとか嬉しいとかゆう心が、もう実意丁寧と言うか。そんなら片付けごとひとつでもです。もうよかよか明日でといったやうな事ではね。その嬉しさは消えていくのである。
それを自分の心の中に言わば、有り難いとゆう心を又暖めた上にも暖めていこうとする事が私は、信心の精進だと。又、その事が楽しゅうなる。その事が又、嬉しゅうなる。元日と思わんでも、日々嬉しゅう暮らせれる、ひとつ生活、そうゆう日々を目指したい。為にはね。ひとつお互いが本気でね。どんな些細な事でも、よかよかといったやうな事にせずにね。それは一日、二日で出来るとは思われんでも、それにやっぱり取り組んでおる姿勢、日々の改まりが第一じゃと。
同時に例えば、日々嬉しゅう暮らせれる。その元日と思わんでも元日と思うてこじつけて言わば、目出たく嬉しゅうとゆうのではなくて、心から嬉しゅうならせて頂く為にですね。やはり本当な事が分からなければいけない。しかもその本当な事が分かっただけではない。本当な事が分かっておると同時に、日々の改まりが第一であるとゆう事を心にかけさせてもらう。同時にです。
そうゆう事が日のうち何回も、御神前に出て御祈念をさせてもらう。しかも心ゆくまでしみじみと、御神前に向かわせて頂いた後がです。本当な事が分かっておるだけでは出来ん。もう本当な事とは分かっておるけれども、これはこうする事がと分かっているけれども、これは腹を立てるやうな事じゃないと思うけれども、むしろ、本当言うたら有り難い事と分かっているけれども、だけではいかんでしょう。
けれどもそれが分かっておらなければいけん。分かっておる事が日々の改まりとゆう。いつも自分の心にかけさせて頂いておる。改まる心に取り組ませて頂いて、しかも、その心が神さまにこう向けられる。心ゆくまで、神さまに御祈念させて頂く。心が神さまに打ち向けられる。その後にです。もう本当に信心させて頂く者の悦びと言うか、悦に入るとゆう事を申しますが、本当にやっぱり悦に入っておる状態ですねぇ。
嬉しいとゆう事は。まあ、いよいよこれは有り難い事になってきたぞと。いよいよ有り難い事にならせて頂くなと思う心がです。嬉しゅうなる。私は今日は、とりわけここのところをですねぇ。元日と思うてじゃないですよ。思わんでもいい。元日とか大晦日とゆう言葉を使っておられるのは、いわゆる心の思い替えの事を言うておられるのであろうと思う。元日と思うてからグウグウ言うて辛抱して。
こらえとるとか言わんといったやうな事ではね。心からいわゆる悦に入ると言うか、嬉しいかぎりといったやうなね事になってこない。いわゆる嬉しゅう暮らせれる根本のところがですねぇ。私共が追求してゆかなければならない。そして思わせてもらう。なるほどこの世はね。嬉しゅう有り難う暮らさなければ馬鹿らしいと。私は信心の欲をね。そこのところへ向けなければならない。
この位の事でイライラしよるこの位の事で情けない。そうゆう事では馬鹿らしい。それにはだからまず、実を言うたら言うなら神愛あるのみだと。本当の事を言うたらこれは神さまにお礼を申し上げるべきなのだけれども、やっぱり不安であるとか心配であるとか腹が立つとかとゆう事。本当な事がだから分かっただけではいけないが分からなければいけない。分かった心でそんなら日々の改まりに取り組まなければいけない。
そこからね。神さまへそうゆう心で向かわせて頂く時です。御祈念を終わった後のいわゆる嬉しいかぎり、まあ、ここのところは、そうゆう嬉しいかぎりと。これは本当に、そうゆう信心を目指して体験させて頂かねばね。昨日日田の綾部さんが参って来ておられる所へ秋永先生が、昨日は筑水の信心共励会から帰ってみえて、夕食をまじえてのいろいろな信心のよもやま話に花が咲いたのですけれども、その中にね。
最近綾部さんがおかげ受けていっておられる事を話しておられます 別に信心するやうになったから、商売が繁昌していきよるとかゆうのじゃなくて、自分の精神が救われていきよるのが嬉しいと言うて、話しておられます。そこにはね。そんなら今までの例えば、綾部さんの生き方が自分ながら不思議な位に改まっておられるとゆう事。これは、高芝さんがあちらへ行かれた当時の綾部さんと信心を一年間されるやうになってからの綾部さんとゆうのが、もう本当に二人見るやうに変わっておられるとゆう事。
いわゆる日々が改まるとゆう事が、ともかく改まっておれるとゆう事がです。もうそこに嬉しい生活が約束されておる事が分かります。本当にもう今までの私と言うたら、もうまるきり女次郎長のごたる気持ちがあったもんですからと、自分で言うておられます。「よし、私が引き受けた。」といったやうな。それがやっぱ時々出てくるんですねぇ。はばからなければいけないかもしれませんが。
実感が湧かんからお話致しますがねぇ。あちらで大変お役に立っておられる番頭さんの中に、最近御自分が世話をされて、あるお得意さんに養子にやられる事になって、もう来月が結婚式とゆう事までが決まっておる。中々商売も上手、又、綾部商店にもその人がおらなければ困るといったところにおられる人なんです。それで自分が親がわりのやうにそれこそ、女次郎長気分であれもこれももうそれこそ、親でもそんな事はしてやられまいとゆう位にちゃんとしつけなんかもして、さしてもろうて、話が決まった。
ところが先日からですねぇ。もう本当に寝耳に水とゆうやうな突発的な事が起こってきた。ある方がみえて、どこかの看護婦さんのその方の叔母さんがやってみえて、お宅の番頭さんが自分とこの姪と、もう赤ちゃんが出来ると。それでその何とかしてくれと。まあそこのところは詳しい、いろいろな話が有りますけれど。そこで、その持ち前の女次郎長が出てきた訳です。
もうこの人は一、二ヵ月後には、養子に行かなければならん程しの、向こうも大変喜んでおられる。こっちも喜びで一生懸命はずみよるところへ、今頃そげな事言うて来られてもと。例えば本人を確かめてみたところが、やはりそうゆう関係があったとゆう事。そこで、まあうちの店員の不始末は、主人の不始末として、私が詫びるより他になか。そして、その子供の事は、私が引き受けたとまあ言うて、その番頭さんのお家は、随分遠い山の中だそうですがそれで向こうの親父さんに。
この事は私がうちで働いてもらっておって、うちでこうゆう不始末が出来た事だから、私が引き受けるから親との相談にその番頭さんの車に乗って、山中を行きよった。ところが、そのふっと考えつかせて頂いて、自分が裁いて自分がしてやろうと思うておる事が間違いだとゆう事に気付いて、もう思わず知らず「ストップ!合楽!」と言いなさったと。車の中で。もう山中をやがて向こうへ着くところまで行っとったけれどもそこから、その「ストップ、合楽」と言うたから、びっくりしてから何ですかと。
「いや、これは向こうの親元に行く段じゃなかばい合楽に行ってから、そしてまあ、一辺初めから考えなおさにゃいかんばい」と言うて、丁度夜の御祈念も済みました頃でした。どうした事じゃろうかと、思いよったら、「先生、おおごとが出来ました」と言うて、参ってみえました。そして、いまの顛末をいろいろ話される。そこで私が申しましたのはです。もうそれで、半ば相手には、「よし私が引き受けた」とゆう事は言うてあった訳ですね。中に立っておられる人に。
それで、子供はこちらで引き受けた。そして、子供はどこにかもろうてもらう。それは何十万かつけてからもろうてもらやいいけん問題は、もう来月は養子にやらなければならない。そうゆう事が控えておるから、それを自分が引き受けて裁こうと、こうゆう気持ちであった訳なんです。それで、向こうも半ば安心して帰られて、おうかがいされたところがですね。「そうゆう問題にタッチするな」とゆう事であった。
そうゆうふしだらな番頭はクビにせろ。ただしそれは、どこまでもお芝居なんだと。そうゆうあんたの所の店におらなければ困る番頭さんの事だから、だから先方の中に立った人にそう言いなさい。「あげん言いよったけれども、よう考えたら私の責任とか何とか言よったけれども、実はそうじゃあない。番頭の中にそうゆう例えばそれこそ不義は、お家のご法度と。さえ昔は言よった位なそうゆうふしだらな事をすると、他の番頭に示しがつかんと、段々思うやうになってきた。
だから私ゃあの番頭はクビにするから、私はこの問題からタッチしない」とゆうやうに言えと、ゆう風に私が言ったんです。だから、私はその番頭をクビにするけん。もう関係はないと。もうそれこそ、自分の思いとは全然反対、まあ神さまがそげな不人情な事を言いなさるとは、たまがったと。自分でも言うておられます けれどもやはり、親先生が言われる事をそのまま親先生任せになって、もうそう思われても、その次の瞬間には、「ハイ」と言えれる人ですね。
だから、全然話は変わってしまったけれど、その事をそうゆう風に向こうに言われた。それは向こうでも、もう私がそれこそ、胸叩かんばかりにして、ひきうけたと。綾部さんに引き受けて頂いたらもう大丈夫だと。向こうも安心して帰った。それで子供は、あんたの子供であるとゆう事を認知する判を押すばっかりじゃった。そして、子供は自分の方に引き受けた。そして、何十万かつけてから。
どこにかもろうてもらおうとゆう計算が出来ておった。ところが「ストップ、合楽」からこちらが、いわゆるその事が全然反対になってきた。まあ女次郎長で引き受けてから、それをもう自分の思いを変えたとゆう事は、自分としても大変苦しい事であった。ところが実際はですねぇ。それから何週間過ぎてから、今日おかげを受けておるとゆう事はです。向こうのその看護婦さんには何人もの男があった事が分かってきた。
そして、向こうでは本当な事が、本当な言わばお父さんを見つけた訳です。そうするとそんなら、こちらの番頭さんの方もです。もう自分がこんな不始末をしでかしてから、とにかく合楽の先生が言わしゃったとよと。そうゆう番頭は、もうクビにせろと言わしゃったよと。そこで腹決めて、ここまで本当に自分の一生の事まで奥さんに考えてもろうて、養子にまでここからやってもろうて、もう準備万端、本当に親でも真似の出来んやうなしつけまでしてもろうて、本当に奥さんの顔に泥をぬって相済まん。
これは、私はこれから幸せになろうと思うたけれども、この幸せを一辺お返しして先方に行って自分の不始末な事を赤裸々に話して、そして、この縁談を断らしてもらうと言うて、向こうの娘さんに自分の過去の不始末を詫びられた。こうゆう訳だから、あんたと結婚する資格の無い私だからと、赤裸々に話された。ところが、その赤裸々に話した事が向こうに受けた。過去の事は過去の事。これから自分が幸せになる事の為に精進して下さるならそれは、責めませんとゆう事になった。それで丸く治まるとゆう。
もう皆が雨降って、地固まるとゆう風になってきたとゆうやうな話。もう先生、私があの時女次郎長を決めこんどったら、今頃は、子供抱いてですねぇ。日田中あっちこっちもろうてもらう為にもうほんに考えてみると、昔はこれがよかとのごと思うとりましたと、こう言われた。もういよいよ片づかん問題が起きてくると、「よか、私が引き受けた」と言うて、自分が手腹切ってからでもせにゃ出来んとゆう、その性分がです。
もういよいよ寸前山の中でです。「ストップ合楽」と言えれるやうになったとゆう事がね、有り難いと言うておられます。そしてそこにね。どんなに例えば、言いにくかってもです。もうそれは、電話でことわる時には、私もちょいとことわりにくかったと。けれども山の中でいろいろ考えさせてもろうて、こうして金光さまにお参りしたら、先生がこう言いなさるから、私はあの番頭はもうクビにすると言うたから。
向こうももう、どうにも仕様がなかった。しかもその事がです。四方八方が本当な事になっていきよる事が有り難いだけではなく、何十万お金をつける位のことじゃない。子供をどこにかもろうてもらわんならん事にあっち行ったりこっち行ったりせにゃならん事も思うただけです。おかげ頂いたと思いますと言うて昨日話しておられます。本当に先生、私はもう、いよいよまさかの時にですね。
駆け込み所が出来たとゆうだけでも心がいつも安らいで、嬉しい毎日が過ごされると、こう言うておられる。それをずっとこう思うてご覧なさい。一年前の綾部さんと一年後の綾部さん。もうそれこそ、もうどうして、まわれ右したごと改まれるじゃろうかとゆう位に。初めの間は、親先生が日田へ行けと言われて行った。なるほど、今までのがつがつの生活から、お金を貯めるやうなおかげになったけれども、とてもこうゆう主人にはついちゃいけんと、初めの間は思いよった。と高芝さんが。
ところが信心頂くやうになって、変わってゆかれるのが、いわゆる目ざましい変わり方をされていくところからです。高芝さん達もそれこそ、有り難く辛抱が出来ておられるやうなおかげになっております。その元をたどらせて頂くと、やはりです。信心を頂いて、教えを頂いて、今までの生き方在り方が間違っておったと、改まったところからです。日々嬉しゅう暮らせれる元が出来とる。
同時にどんな場合であってもです。いわゆるバックボーンですいつも合楽が有るとゆう事。いよいよの時には、自分の駆け込み所があるとゆう事。自分の一番有り難い事は心の安らぎがあるとゆう事だと、昨日も秋永先生とお話なさっておられる。信心は日々の改まりが第一じゃと。これは心の中の事を改めるだけじゃありません。綾部さんの場合はね。形の上の事もね。もう本当に自分でたまがるごと改まっておられます。
改まっていきよんなさる。これからとても又改まっていく事の有り難さが分かってみえたら、いよいよもっともっと、本気で改められる事でしょう 元日と思うとか大晦日と思うて日々嬉しゅうとゆうのはね。それはとってつけたやうなもんでしょうが。けれどもその改まるという所からですね。生まれてくる心の安らぎ、それがそんなら今日私は、御神前に向かわせて頂いて、しみじみ神さまにお礼を申させて頂く時です。
それはどうゆう難儀な問題を持っておってもひっかかえておってもです。その問題は実は神愛であるという本当な事が分かって神さまへ向かう。ですから心が静かになってくるだけでなくて、有り難うなってくるだけでなくて、それこそ悦に入っておりたい。それこそこれは、ある種の変態心理ではなかろうかと思う位。叩かれながらニャニャするとがおるでしょう、けれども、信心でもそうなんです。
言うなら、叩かれておるやうな、普通で言うなら悲しい事であったり苦しい事であったりする事がです。本当な事が分かるところから、嬉しゆうなってくる。信心ちゃ、なんちゅう有り難い事だろうかとゆう事になってくる。そこまでね。お互い信心をひとつ進めていきたい。日々を嬉しゅう暮らせば家内に不和はない。勿論不和はある段じゃありますまい そこにね。いわゆる勿論、尽きぬおかげが約束されます事も勿論です。
今日は、どうでも皆さん、ひとつ日々嬉しゅう暮らせれる信心をひとつ目指して頂きたい。それにはね。やはり日々の改まりとゆう事がいつも心にかけられて、心の上の改まりも第一ですけれども、形の上の事でも、これは、私のくせだからと等言わずに改まっていく信心。けれどもやはり、人間それぞれの性格を持っておりますから、それこそ山の中に入って行く事が有ります。
そうゆう時にふっと自分の心の中にまわれ右させて頂けれるだけの信心いわゆる「ストップ合楽」なのである。自分の考えでやっていきよる事がです。これではと。そこに自分の心にストップが命じられる。向きを合楽にかえられる。そこんところがね。私は又大事だと思う。日々、嬉しゅう暮らせれる。今日は、もうとりわけここのところを私は頂いていきたい。日々をひとつ嬉しゅう暮らせれる方法、そうゆう手をです。
勿論信心によって、そこんところが頂けれるおかげを頂きたい。自分の心に不和が無いから、家内に不和が無い事も、勿論自分の職場に於いてもしかり。神さまの願いとされるところ、又、私共の願いとするところ、その神さまの願いと私共の願いが一致する。そこから願っていく信心 しみじみと有り難いなと思えれる事はです。しみじみとどのやうな事でも願われるとゆう時です。不思議です。
本気で改まるとゆう事になるとね。どげなこつでん願われるです 例えばこれは、対人間の場合でもそうでしょうが。その人の言う事をいつも自分が聞きよるならです。どげなこつでん、こちらも頼れるでしょうが。それと同じ事。しみじみと願われる。しみじみと願うた後の有り難さと言うか、信心の悦に入ると言うか。
ほんに悦に入っとるとじゃなかろうかとゆうごと思われる位にです。どんなに寒いとか冷たいとかゆう時でも、その中にほのぼのと有り難いものが湧いてくる。いわゆる嬉しゅうなってくる。おかげを頂かせてもらう。日々を嬉しゅう暮らせば、家内に不和はない。日々嬉しゅう暮らせば、商売は繁昌する。日々嬉しゅう暮らしていけば、必ず願い事が成就する。そうゆう風にも言えると思いますね。
どうぞ。